アタテュルクとチェコのかかわり

2023年08月18日付 Hurriyet 紙

最近アタテュルク像の設置に許可を与えたなったチェコだが、ムスタファ・ケマル・アタテュルクには、チェコとのまた違った関係がある。彼は腎臓から健康を崩し、1918年の夏にボヘミアで湯治を行った。この間の彼の日記は、「カールスバードの思い出」という本になった。チェコは、アタテュルクの訪問した最後のヨーロッパの国だった。

アタテュルクは、将校としての最初の数年以来腎臓の疾患に悩まされていた。リビアでイタリアに対して戦争をしていた際に再発したこの疾患はチャナッカレでも続いた。耐え難い病状になり1918年にウィーンへ治療に向かった。最初の治療の後にカールスバードに行った。現在のチェコの一都市であるカールスバードはこの時オーストリア帝国の領地の一部だった。温泉で有名な土地であった。「王の風呂」という意味の名がこの地に付けられたのも、それらの温泉にちなんだものだ。有名なロシア皇帝ピョートル一世やジークムント・フロイト、トルストイ、ベートーヴェン、カフカ、モーツァルトなど世界の名だたる人々がここに訪れたそうだ。何百年という歴史がある。

■湯治

ムスタファ・ケマル少将は、1918年の6月30日にカールスバードに到着した。ウィーンの医者の勧めたヴェルメール医師と出会った。湯治の計画が立てられた。湯治の他の時間で地域を巡った。そこで過ごした日々を記録した。今日チェコの領地であるカールスバードは、アタテュルクのヨーロッパで旅行した最後の土地であると記録されている。

■6冊のノートに記録された。

アタテュルクはここでの旅行に、談笑に、思い出に、読んだ本に、この期間の軍事と政治の問題について説明した6冊のノートからなる日記をしたためた。この日記たちは1931年にアフェト・イナンによってチャンカヤの図書館で発見された。その後イナンの手で「ムスタファ・ケマル・アタテュルクのカールスバードの思い出」として出版された。

■日記には何がある?

日記の中で、アタテュルクの日々の生活に関する詳細と共に将来に関する政策についても興味深いヒントがある。

■「女性に対して勇敢であれ」

(1918年7月6日の日記より)「この女性問題について勇敢になろう。心配を捨て去ろう、、、。開かれた彼女らの知性をしっかりした学問と科学で強化しよう。高潔さを科学的に健全な形で説明しよう。名誉と品位の持ち主となることに一級の重要性を与えよ。その後個人的に、我々の本質と道徳に適した女性を探して彼女と結婚するうえでの条件を明確に定めよう。彼女に対する敬意が欠けているなら、それを補おう。女性もこのように行動せよ。」

■「ヒンデンブルグ元帥はトルコ人へ借りがある」

(1918年7月14日の日記より)「もしもドイツのヒンデンブルグ元帥は、トルコ軍の援助でもってガリツィアの山中でロシアの攻撃を退けていなかったら、ヒンデンブルグは、ヒンデンブルグたりえなかった。もしもコーカサスで、メソポタミアで、パレスチナで、さらにはすべてのトルコ国境で、トルコ軍が面前のロシア、イギリスとフランスの連合を止めることができずにいたら、そしてもしトルコが国土の一部を犠牲にしていなかったら、ドイツ軍の今日のような安定は信じられるか?この真実がトルコ人たちの大部分にさえも知られていないことのなんと悲しいことか。」

■「全てのことを書かなかった。」

(1918年7月27日の日記より)「カールスバードで過ごした日々の思い出を完全にありのままにこのノートに書くことはできなかった。これには二つの理由があり、一つは十分に文字を書くための時間がなかったことである。二つ目は全ての考えたこと、行動、要するに私の思想と生活についての秘密をこのノートにどうしてゆだねられようか。」

―アタテュルクのこの期間滞在した宿には「重要な政治家であり、トルコ共和国の建国者M・ケマル・アタテュルクが、1918年の7月にここで療養した」と刻まれた銘板が今も残っている。


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翻訳者:鈴木敬人
記事ID:56170