政治学者、歴史家のメテ・トゥンチャイ氏亡くなる

2025年08月18日付 Medyescope 紙

政治学者で歴史家のメテ・トゥンチャイ教授が、89歳で亡くなった。トゥンチャイ教授の葬儀は、レヴェント(アフェト・ヨラル)・モスクで午後の礼拝の後に行われる。

オスマン朝とトルコにおける左派運動の歴史に関する研究で知られる学者であり、教授であり、政治学者であり、歴史家であるメテ・トゥンチャイ教授は、89歳で亡くなった。

トゥンチャイ教授は、亡くなる前は健康上の理由で、エティレル養護老人ホーム・リハビリセンターに入所していた。

イスタンブル大学社会科学学部政治史学科メフメト・オズヌル・アルカン学科長は、トゥンチャイ教授の死をSNS上で発表した。

アルカン教授は次のように述べた。

「メテ・トゥンチャイ教授は、残念ながら亡くなった。とても悲しかった。一つの時代が終わったかのように悲しかった。彼は、私の先生であり、兄であり、同志であり、賢者であり、45年来の親友であった。尊敬すべきパートナーであるギョニュル・パチャジュを筆頭に全ての彼に近しい人々に哀悼の意を表しお悔やみ申し上げる。葬式に関する情報が届き次第、共有する予定だ。」

トゥンチャイ教授の葬儀は、8月18日月曜日、レヴェント(アフェト・ヨラル)・モスクで午後の礼拝の後に行われ、フェリキョイ墓地に埋葬される予定だ。

■メテ・トゥンチャイ教授はとは。

1936年にイスタンブルで生まれた。ベイオール・アタテュルク男子高校を卒業し、1958年にアンカラ大学政治学部を卒業した。同学部で助手を勤め始め、1961年「自由という概念」という論文で博士課程を修了した。

ロックフェラー財団の奨学金で留学したロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで研究をした。1966年に「トルコにおける左派の潮流1908年から1925年」という研究で准教授となった。1972年に政治学部での職から離れた。文化省や国民図書館で様々な職を歴任した。1978年に大学に戻った。しかし、1983年に[1980年の軍事クーデター後に出た緊急事態法である]「第1402号法の対象者」を含まれ高等教育機構によって解任された。その後、出版社や雑誌社で働いた。「歴史と社会」と「社会史」誌の編集者を務めた。1987年、1988年にベルリンでカール・フォン・オシエツキー教授職を務めた。第15行政裁判所の決定により、1990年6月に政治学部に復職した。しかし、9月18日に辞職した。1995年にマルマラ大学で、その後もイスタンブル情報大学で教員として働いた。ヘルシンキ市民会議、歴史財団、アバント・プラットフォームの委員に名を連ねた。

◾️作品
「トルコにおける左派の潮流1908年から1925年」(1967).
「トルコ共和国における一党独裁制の創設 1923-1931」(1982).
「知られるべきことを知ること」(1983; この著作の巻末に、著者のこの年までに公刊したすべての著述・翻訳の書誌情報が掲載されている).
「社会主義者の政治思想史」(作品集 2巻本、1976).
「西洋における政治思想史」(作品集 3巻本、2刷、1986).
「トルコにおける左派の潮流 1925−1936」(1992).
「西洋における政治思想史:近世」(2002).
「西洋における政治思想史:選集」(2004).
「批評史選集」(2005).
「聖戦と強制移住」(2007).
「統一共産党のトルコ語報道機関:ズィヤ紙1920-1923とトルコ」(2009)
「トルコ人民コミュニスト党 1920-1923」(エルデン・アクブルットと共著、2009).
「国際労働者連帯:イスタンブル占領期、ギリシャ系住民が重きを占める労働者組織とトルコ共産党との関係」(エルデン・アクブルットと共著、2009).
「1923年行動連帯」(2009).
「トルコ共和国における一党独裁制の創設 1923-1931」(2010).
「批評史選集」(新聞、雑誌掲載の著述を収載, 2012).


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翻訳者:新井慧
記事ID:60668