大アーヤトッラー・サーネイー「若者は自由を奪おうとする宗教を忌避している」
2007年08月18日付 E'temad-e Melli 紙

 大アーヤトッラーのサーネイー師は、若者の「宗教忌避」の傾向を指摘する最近の一部議論を批判して、「若者が忌避しているのは、専制的な政治や正当な自由の否定につながるような宗教の定義に対してである」との考えを示した。

 マルジャエ・タグリード〔シーア派の宗教最高権威〕である同師の広報サイトが伝えたところによると、「青年の日」に行われた発言の中でアーヤトッラー・ユーセフ・サーネイーは、若者たち〔が直面している問題〕、学生らが抱える不安〔訳注:原文では「大学」となっていたが、文脈から「学生」の誤りであると判断した〕、そして彼らのいわゆる「宗教忌避」の問題について、自らの見解を以下のように示した。
まず最初に、大学生や大学関係者らの宗教忌避について指摘しなければならない。彼らは、宗教に対するある種の理解を拒否しているのであり、一部の問題は宗教と関わるべきではないと考えている。しかしその一方で、無意識的に宗教を忌避している人々もいる。彼らはさまざまなストレスや困難に直面して、宗教から目を背けることで状況が改善されるものと考えている。もちろん、このような宗教に対する忌避行動は一時的なものに過ぎない。

 同師はまた、イスラームに対する否定的な見方は一部の人物の誤った言動にその原因があると指摘した上で、次のように語った。
例えば、約束を守ることはイスラームでは義務である。国家が人民と結んだ契約もまた、この種の約束に属する。それ故、人民に対して〔実現不可能な〕約束をするべきではないし、もし約束をするならばそれを履行することが義務となる。そして万が一履行が不可能だった場合には、その理由を説明する義務があるのだ。もしそれを怠れば、それは聖法上ハラーム〔違法〕である。

 マルジャエ・タグリードであるサーネイー師は、若者が忌避しているのは、〔宗教に対する旧態依然とした権威主義的な理解に対して〕批判的な人々を背教徒〔ムシュリク=唯一神を信仰しない多神教徒〕であるかのように非難する、〔自由な意見を認めようとしない頑迷な〕宗教理解に対してであるとした上で、「〔しかし〕現在社会では、宗教に対する良質な認識が育っていることも事実である。イマーム・ホメイニーが蒔いた種が今、実を結ぼうとしている」と期待を表明した。

 同師は現代世界に対する自らの見解を説明する一方、これまでと同様、投石刑に対する聖法上の立場について、再び次のように論じている。
この問題については、特定の司法手続きが守られる必要がある。厳格な条件の下で、4人の証人による良心に基づいた完璧な証言が得られなくてはならない。そうでない場合は、ミールザー・ゴンミーのファトワー〔宗教上の教令〕にしたがい、判断を無謬なるイマームの再臨〔お隠れ状態の第12代イマームが終末のときに救世主マフディーとして再臨するというシーア派の信仰を指す〕に委ねるべきであろう。いずれにせよ、《裁判官の良識》が判断の基準となることはない。

 同師はまた、女性の権利に対する家父長的理解を非難して次のように論じた。
女性が男性に従うということは、女性が奴隷であるということを意味するものではない。男性が女性に対して行為の許可を与えるこがと正当であるならば、女性が男性に対して行為の許可を与えることも、同様に正当性を有する行為である。例えば、男性は女性の尊厳や権利を侵すことになりかねないような場所に行ってはならない、といったことを命ずる権利を、女性は有しているのである。


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( 翻訳者:斉藤正道 )
( 記事ID:11770 )