Yildirim Turker コラム:レイラ・ザナを語る
2011年04月16日付 Radikal 紙

はじめて会ったとき、彼女には幼い少女がもつ、おどけた明るさのような、まっすぐな芯のようのものがあった。政治がねじ曲げ、政権がダメにした、あまり上品とは言えない人々のど真ん中にいた。どこからここへ来たのかまだわからなかった。彼女に与えられた狭い世界の垣根をどうやって頑張って払いのけ、彼女自身をどうやって築き上げてきたのかを我々は知らなかった。しかしこうして我々の目のまえに、私たちにも、私たちの敵にも似ていない若い女が立っていた。長い道のりを経てやってきたことは明らかであった。

彼女の輝きの裏には、その輝きをもたらすための長く、苦しい旅路があった。

1961年、バフチェキョイという名の7~8軒からなる小さな集落で誕生した。男子だけが子どもの数に数えられるような、そういった世界で、5人姉妹の2番目として生まれた。きっと人生ではじめて感じた感情は、家族に男の子がいないことによって受けた辛さであったろう。(本来なら男として生まれるべきだったのに)持つべきものをも持たずに生まれてしまったのだ。狭い世界を豊かにしてくれたのは、父親が彼女を男の子のように育てるという無茶な願望であった。彼女も母親より父親を良く知り、父親を好いた。父親はマラバディの国立水道局で働いていた。レイラは1年近く学校に通った。文字を覚えたが、退学させられた。ともあれ、結局はやっぱり女の子供であったということである。14歳になったとき、父親のいとこメフディ・ザナの母親(つまりレイラの大叔母)にチャイをふるまっていると、父親はレイラに「娘よ、おまえを嫁に出す。どうだい」と聞いた。怒った娘はチャイのお盆をそこに投げ捨て、父親を殴り始めた。もちろんメフディ兄さんは知っていた。小さい頃は彼の獄中の話を聞いて過ごした。母親の反対にもかかわらず、父はその言葉を翻すことはなかった。メフディ・ザナと結婚させられた。1年後にディヤルバクルに引っ越した。もはやロナイという名の息子のいる、読み書きのできない幼い妻となっていた。慣習のために、結婚後はスカーフを被らなければならなかった。1年は我慢できた。頭にまく布は好きだったが、スカーフは耐えられなかった。父親や周囲の強い圧力にもかかわらず、屈することは無かった。15歳の幼い妻は、もうスカーフを被らなかった。翌年、メフディ・ザナはディヤルバクル市長に選出された。1980念の9月12日クーデター後には逮捕された。息子のロナイは5歳だった。ロナイの弟ルーケンはその時レイラのおなかの中にいた。

レイラ・ザナの刑務所生活が始まった。何年もの間、ディヤルバクル、アフヨン、アイドゥン、アクシェヒルの刑務所を回りながら、トルコ語を学んだ。侮辱の中で、小突かれたりたたかれたりする中で、そして罵られたりする中で。世の中が、この2人の子を持った若い女を怒鳴りつければつけるほど、彼女は読み書きを学び、人として認めてくれないことを知るや、必死で人間であろうとした。刑務所では、自分のような人々と知り合った。政治的アイデンティティを持ち始めた。女性として生まれ、クルド人として生まれた。これを呪いながら生きていくつもりは毛頭なかった。

こうして、レイラ・ザナは1991年の選挙で国会議員として議会に入った初のクルド人女性となった。30年の人生に以下のようなたくさんのことを詰め込んだ。学校を経験することなく、小学校、中学校、高校の卒業資格を得た。さらにのちに、新聞記者となった。波乱万丈の自己形成の冒険譚は、多くのクルド人女性に希望を与えた。議会から民主党の友人とともに無理やり連行されたときには、この国の根本的行きづまりを示していたのだ。クルド人がクルド人でないと証明するために仕掛けられた、おかしく、しかし乱暴な公用語に反対し、初めてトルコ大国民議会で自分たちクルドの代表者の一人となったことは、その人生と真実を継続的に保留するために仕掛けられた「権威」にとって、許しがたいことであった。レイラ・ザナはクルド人であること、クルド人の権利のために民主的闘争を行うことを一度はっきりと口に出した。声なき人々の、そして存在を認められていない人々の代表となるためのエピソードは、乱暴な方法で終わりを迎えた。のちに選挙における「最低得票ライン」にひっかかってごみ箱に捨てられることになる、この国の大部分人々の票、選択、期待は、1994年3月に刑務所に投げ入れられることになった。すなわち民主党国会議員のレイラ・ザナ、ハティップ・ディジュレ、オルハン・ドアン、セリム・サダックに15年の懲役が科されたのだ。

国会議員に選出された際のヌリイェ・アクマンとの対談で、「あなたがたを知らない人々にレイラ・ザナをどう説明しますか?」という問いに、「自分をまず人間として、次にクルド人として見ています」と言っている。「自分をトルコ人とは感じないんですか?」という問いにも、「いいえ、全く。トルコ語を1984年に刑務所の中で学びました。私は最後までクルド人です。母はトルコ語を一つも知りませんでした。あなたは自分をクルド人と思わないでしょう、私もそうです。トルコ人とは思いません。しかしトルコ人を好意的に見ています。みんな人間です。しかし今日困難な状況の中で、警棒に屈しているのは私たちなのです」と述べた。

こうして、その後、騒動を引き起こすことになった言葉がこれなのであった。トルコ語とは、この国にいるヨーロッパ人のサッカー選手を(トルコ語を話せば)「トルコ人」のようであるとして称賛する言葉であり、そしてトルコ人であることを世界で最も羨望されるアイデンティティとみなす言葉であり、そして機会があれば旅行者にさえもむりやり自分をトルコ人であると感じていると告白させる言葉である。ザナの発言は、このような奇妙な言葉の世界で、やすやすと受け入れられるものではなかった。

国会議長のジンドルク氏は、何度も彼女に辞任を促した。国家治安裁判所のデミラル首席検事は、「それならトルコに何の用がある」と叫んだ。レイラ・ザナは、自らが血祭りにあげられる“祭壇”を準備していたのであり、政治の冷血で、計算高い言葉にいい顔を見せず、自らが苦しみの代弁者となり、その苦しみをまず説明しようとしていたのだ。このインタビューの中で、ヌリイェ・アクマンは、「我々の言語と文化は異なるが、しかしこれらは何百年もの間、共に生活するうえで障壁にはなってこなかったではないですか」と語る。これに対し、レイラ・ザナは、「(共に暮らしたといいますが)しかしそれは、どんな生活でしょうか?奴隷のように、貧困や無視と直面する生活です。80年以降、経験した出来事は私に、『私とはなんであるのか、誰であるのか』という問いを投げかけました。私はまず第一に人間です。そして人間らしく生きることを望んでいます。しかし、我々にいまだ『未開の野蛮なクルド人』という扱いがなされています。いつも頭を警棒で殴られ、電気ワイヤーで縛られるなら、公衆の面前で真っ裸に身ぐるみ剥がされるなら、侮辱され続けるとしたら、あなたは自分をどう感じたでしょうか?」と答えている。最善の策は、彼女を忌み嫌い、牢屋に放り込み、忘れることだった。しかし、彼女は、忘れられなかった。

(議員としての)非訴追特権は、あっという間に取り上げられた。人生であらゆる知識を自分の努力で学んだこの女性は、一度も慈悲をかけられたことのない、そして反対にその弾圧を身近で受けてきた国家によって呪われた存在だと宣言された。そして彼女は一つのシンボルとなった。彼女は、自分自身に、そしてクルド人女性に与えられた狭い世界の向こう側に、もう一つの世界を作りだした。

望もうが望まなかろうが、我々は彼女の話を聞くことになるだろう。レイラ・ザナがこの社会に語りかけていくべきことはたくさんあるのだ。

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( 翻訳者:吉岡春菜 )
( 記事ID:22147 )