イラン・イギリス関係史概観
2011年11月28日付 Mardomsalari 紙

 1357年〔西暦1979年〕、イランにおけるイスラーム革命の勝利を受けて、イギリスは在テヘラン英国大使館を閉鎖し、イギリス人外交官たちをスウェーデン大使館内の英国利益代表部に移した。それから数ヶ月後、武装した6人の人物が在英イラン大使館を占拠し、22人を人質に取る事件が起きた。この人質事件は、イギリスの特殊部隊が大使館内に突入したことにより終結した。

※訳注:在イラン英国大使館での勤務経験のあるクリストファー・ランドル氏によると、英国が在イラン大使館を閉鎖したのは1980年の秋で、在英イラン大使館が武装グループによって襲撃されたのは1980年4月のことであるという。なお、英特殊部隊の突入作戦によって、在英イラン大使館職員2名が死亡している。また、在イラン英国大使館の建物は「英国大使館」としては閉鎖されたものの、スウェーデン国旗を掲げ、イギリス人外交官たちが勤務する形で、活動を継続していたという。(Christopher Rundle, 'Iran-United Kingdom relations since the Revolution: Opening Doors', in "Iran's Foreign Policy: From Khatami to Ahmadinejad", edited by Anoushiravan Ehteshami & Mahjoob Zweiri)

 9年後の1366年〔西暦1988年〕、テヘランにあるイギリス大使館が再開された。しかし、1367年〔西暦1989年〕にイマーム・ホメイニーによってサルマーン・ラシュディ―に対して歴史的な〔死刑〕判決が下されたことで、再びイラン・イギリス間の外交関係は断絶することになる。その翌年、両国の外交関係は復活したが、この関係は臨時代理大使レベルに留まり、イギリスとの外交関係が大使レベルにまで引き上げられるのは、1376年〔西暦1997年〕を待たねばならなかった。

※訳注:在イラン英大使館が再開されたのは1988年の終わりであり(ibid)、そのため「1366年」〔1987.3〜1988.3〕という記述は正確ではないものと思われる。

 1380年シャフリーヴァル月〔西暦2001年8〜9月〕、ジャック・ストロー英外相(当時)はイギリスの外務大臣として、革命後イランを訪問する最初の人物となった。彼の訪問目的は、アフガニスタンのターリバーンに対抗するための連合を作ることだと言われていた。ジャック・ストロー氏はその後再びイランを訪問し、イラン当局者と会談した。しかしその年のバフマン月〔西暦2002年1〜2月〕、改善しつつあった2国間関係は、イランがデイヴィット・ラダウェイというイギリスの新任大使の受け入れを拒否し、彼をスパイ呼ばわりしたために、悪化することとなる。

 1382年シャフリーヴァル月〔西暦2003年8〜9月〕に、アルゼンチンで起きたテロ行為への関与の疑いで〔アルゼンチン当局によって〕起訴されたイラン人外交官のハーディー・ソレイマーンプール氏がイギリス当局によって逮捕されたことで、両国の間に新たな危機が生じた。

〔‥‥〕

 1386年ファルヴァルディーン月〔西暦2007年3〜4月〕には、イギリス人水兵らがイランの領海を侵犯した疑いで逮捕され、イランとイギリスの間で激しい対立が生じた。〔‥‥〕事件から5日後、水面下の駆け引きと穏便な外交による問題解決に絶望したイギリスのブレア政権は、それまでのスタンスを変えて、〔‥‥〕水兵らの解放のためにはイランへの外交的圧力を高めるべき時期が来たと言明、イギリスの政界及びマスコミでは、外交的解決、経済制裁、ホルモズ海峡封鎖、そしてイランに対する軍事的冒険主義、の4つの選択肢が検討された。最終的にはその2週間後、マフムード・アフマーディーネジャード大統領は突如、水兵らの釈放を発表し、この釈放はイランからイギリス国民への贈り物!であると表明したのであった。

 1388年〔西暦2009年〕の大統領選挙後の混乱で、イラン外務省は在イラン英国大使館の上級外交官2名を国外追放し、それに対抗する形でイギリスもまた西暦2009年6月23日に在英イラン大使館の現職外交官2名を、同国から追放した。その後も在イラン英国大使館のイラン人職員9名が、選挙後の暴動に関与した容疑で逮捕されている。

 昨年、在イラン英国大使館は世界人権デーに際し、サイモン・ガス駐イラン英国大使が執筆したものとして、イランの人権状況について批判めいたコラムを発表した。それに対しイラン・イスラーム共和国外務省はサイモン・ガスを自らのもとに呼び出し、また一部のイラン当局者や国会議員らも「イランからのイギリス人大使の追放、および対イギリス外交関係レベルの引き下げ」を求めるという事態に発展した。

 国会の国家安全保障外交政策委員会は当時、「マフムード・アフマディネジャード政権に対して、対イギリス関係の考え方の見直しと、同関係レベルの引き下げの可能性、さらにはその停止」さえも〔検討するよう〕求めていた。

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( 翻訳者:8408061 )
( 記事ID:24769 )