Mehmet Y. Yilmaz コラム:「しかし・・」―シャルリエブド事件

2015年01月13日付 Hurriyet 紙
一握りの狂信者以外は誰もがフランスでのテロリストの襲撃事件を非難した。そして、だれもが人間の生存権や思想や表現の自由を守るのだと主張した。

全イスラム世界に呼びかけが行われ、ジハーディストの暴力と距離を置くよう説かれた。我々はイスラム世界をとりまく暴力の風潮を問うた。また、これを解決しうる者も、まずはムスリムであるということを我々も述べたし、耳にもした。
人類の大半は「しかし」と言いながらテロを正当化する考え方からは遠ざかり、またテロを正当化する者たちは非難された。
私の考え方の中に特に変化はない。直近のテロリスト襲撃事件以前もそう言っていたし、今もそのように考えている。
だが、「しかし」ということばが今もなお(私の中で)くすぶっている。ご容赦いただけるなら、「しかし」という権利を私は行使したい。
もちろん、これはテロを正当化するような、テロリストの行動に意義を持たせる「しかし」ではない。
なぜなら、西洋世界に君臨するダブルスタンダードに関して、「しかし」と述べる権利が我々にはあるからだ。
世界中どこにでもいるように、民主的西洋世界にもレイシストは存在するし、今日彼らが嫌悪を表明できる最大の対象はムスリムである。
実際、ムスリムを嫌悪するのと同じくらい、レイシストはアフリカ系アメリカ人やユダヤ人も嫌悪しているが、西洋世界の世論でその嫌悪を表明することはそう簡単ではない。
ユダヤ人の敵であるデザイナーのガリアーノ氏にふりかかったことを思い出してみよう。彼がユダヤ人に関する発言と同様のものをムスリムに言っていたとしたら、彼は普通の生活を続けていたはずだろう。これに疑いはない。
アメリカのレイシストたちは、ムスリムに関するジョークの半分も、アフリカ系に関してはできなかっただろうし、ムスリムに対して言ったことの半分も言えなかっただろう。そうした者は貶められ、社会からはつまはじきにされただろう。実際、このようなことをやりたいと心の底から望んだとしても、それを実行することなど考えもしなかっただろう。
思想の自由や考えたことを表明する自由は当然誰にとっても有効だが、これにはやはり一般的に容認しうる限界というものがあり、この限界の存在が思想の自由を傷つけているなどとは、誰も思わない。
限界とは明らかである;すなわち人種差別をしないこと、暴力を美化して扇動しないことである。
私も一つ加えよう;すなわちアフリカ系アメリカ人やユダヤ人には言えないことばや、描けない風刺画をムスリムに対してもしないことだ。
ムスリムを侮辱するために描かれたムハンマドの風刺画のどこが、「繊細なユーモア作品」だといえるのだろうか?
「喜びには喜びが必要である(訳注:ジョークにも気遣いは必要)」ということばがあるが、これを忘れないことだ。
これをしたがためにあなたが暴力に遭うなら、当然我々はその暴力をふりかざす者たちの前に立ちはだかる。
しかし、だからといって、我々があなたを正しいと認めた結果だ、などと考えないように。

■「しかし」、こう考える者たちは少なくない

パリでの殺人を抗議するためにデモを行う者たちに、抵抗を示した者たちもいる。
その最中に逮捕された2人は、「ムスリムの血が流されている、おまえたちはまだここでわめいているのか」と叫んだ。
同様の出来事が(イスタンブルの)フランス領事館前でのデモの最中にも起こり、「フランスでは12人が死んだからデモをしているのか」と言った1人が逮捕されたという。
これらは稀な例のようであるが、イスラム世界では、パリのジハーディストテロを正当化する多くの人々がいることに疑いはない。
なぜなら、彼らはイスラムをそうやって解釈し、この種のテロ行為が宗教の教えに合致し、一つの「戦争」の結果であると考えているからだ。
さて、これから読者に読んでいただく箇所は、昨日(1月12日)ファルク・キョセ氏がイェニ・アキト紙に書いた記事から転載している。記事のタイトルは「一体誰が『イスラムは平和宗教だ』と言ったのか?」である。
一緒に読むとしよう。以下の箇所はその記事からである。私はただ、宗務庁長官がこの問題に関して声明を発表することが有益であろう、とだけ述べておく。

今日「イスラムは平和宗教だ」と言われている。「おまえは、戦争に何の用があるんだ、(戦争になど行かずに)じっとしていなさい」と言うために用いられるこのことばは、このままでは決して正しくはない。盲目者が見えない象を説明するように、イスラムをその片方から、特に自分に「都合のいい立場」から「イスラムの定義」をし、「イスラムに立ち位置を割り当て」、「イスラムに役割をあてはめ」、さらには「ムスリムにはふるまい方を指示」しようとする認識からなっている。
タイトルに戻ると、そう、イスラムは平和宗教のみからなっているのではない。同時に「イスラムは戦う宗教である」。「道徳の宗教」であり、「アッラーを礼拝し/しもべとして仕える宗教」であり、「国家/政治/統治宗教」であり、「法/正義の宗教」などであるように。しかし、これら全てが集まって、その一体性の中で、そしてその一体性が他の要素とともに作用するとき、「イスラムゆえの」という現実とともに…。つまり、「イスラムは総体的な生きる指針」であり、「平和」に関する教えもあれば、「戦い」に関する教えもある」というほうがより正しい。
「イスラムは平和宗教である」という言説は、「イスラムは平和を推奨する/優先する」ことを強調するためではない。この種の言説は、一般的に「ムスリムではない者たち」または「非ムスリムに良く思われたい者たち」が使っていることに気付いてほしい。これは、「ジハードと虐殺の記述がない、飼いならされた、または良心で固められたイスラム」像以外の何物でもない。
イスラムがただ「平和宗教」というだけなら、クルアーンの「戦争やジハードに関わる聖句」はどうなる?クルアーンで「戦争」という意味を持つ‘kıtâl’という語は13か所、「相互戦争」という意味の‘mukatele’やその派生語は57か所、この概念の語根である‘katl(殺害)’という語やその派生語は170か所、‘harb’(戦争、戦い)という語やその派生語は11か所、‘cihad’(ジハード、聖戦)という語やその派生語は41か所に現れている。一方、平和という意味の‘silm’という語は、平和の意味ではたった6か所にしか現れていない。
この点について聞きたい。ムスリムがクルアーン全てに応えるとき、「戦わないムスリム像」は、「クルアーンが示すムスリム像」となりうるだろうか?
「このクルアーンの真実のほかに、『私は慈悲と戦争の預言者である』といった神の使徒(ムハンマド)が10年間のメディナでの生活で、25回直接戦争に加わり、50回軍隊を派遣したことが知られている。
それにもかかわらず、「イスラムは平和宗教である」ということばが、どのような意味を持つのか、どのような「ムスリム像」を描いているのか、世界中でムスリムの血が流されているときに、この言葉がどのようにムスリムに「飼いならされた羊」になるよう説いているのか、考えることが必要であり、その裏にある「イスラム」と「ムスリム」のタイポロジー(類型論)に気づかなければならない」


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翻訳者:安井 悠
記事ID:36528