ファーエゼ・ハーシェミー、拘束される
2009年06月22日付 E'temad-e Melli 紙


【政治部】昨日、ハーシェミー=ラフサンジャーニー氏の娘ファーエゼ・ハーシェミー氏が、自身の子供とともに拘束された。ファーエゼ・ハーシェミー氏とともに、彼女の娘、夫、及びホセイン・マルアシー〔元副大統領、ラフサンジャーニー氏の妻の従兄弟〕氏の子供も拘束された。土曜日から続いていた政治活動家やジャーナリストらの逮捕の波が、ハーシェミー=ラフサンジャーニー氏の家族にまで及んだ形だ。74歳になるハーシェミー=ラフサンジャーニー氏は今や、自らが中心となって約30年前に作った体制の獄舎に、自らの一族の一部が収監されるという事態を目の当たりにしている。
〔※訳注:拘束されたラフサンジャーニー一族は、その翌日釈放された〕



 複数の原理派学生団体がハーシェミーとその一族の逮捕を要求するデモ集会を開いてほんの数日後、彼らの望みは実現されたようだ。昨日、アフマディーネジャード支持派のメディアの一つファールス通信が、アクバル・ハーシェミー一族のうち5人の拘束を伝えたからだ。

 以前にもファーエゼ・ハーシェミー氏と〔ハーシェミー=ラフサンジャーニーの息子で実業家の〕メフディー・ハーシェミー氏の二人が自宅軟禁状態に置かれたとの情報を報じたことのあるファールス通信は、昨日次のように報じた。「ファーエゼ・ハーシェミー、彼女の娘、ホセイン・マルアシーの妻〔※「ファーエゼの夫」の誤りか?〕、マルアシーの娘、及び同氏の妻の姉妹が土曜日夜、居場所を特定され、司法令状とともに治安警察によって逮捕された」。

 ファールス通信は、ハーシェミー=ラフサンジャーニー一族の拘束理由について、彼らが〔違法〕集会に参加したことと関係があるとした上で、ある治安当局者の発言として、次のように報じている。「土曜日、ハーシェミー=ラフサンジャーニーの娘をはじめとする、同氏に近い一部の人物は、ジョムフーリー(共和国)広場の周辺で開かれた違法集会に参加した。治安部隊の報告によると、彼らはただちに最寄りの軍施設に身柄を移され、暴動が終わるまでそこで身柄を保護された」。

 先週水曜日にも、ファーエゼ・ハーシェミー氏がイラン国営放送前で行われた抗議集会で、集会参加者らを前に演説を行ったことに対し、原理派が運営する一部のニュースサイトや通信社は、彼女とメフディー・ハーシェミー氏の二人が自宅軟禁に置かれたと報じていた。この報道はその数時間後、ドッリー=ナジャフアーバーディー検事総長によって否定された。

 大統領選の某候補者〔=アフマディーネジャード〕が選挙宣伝期間中、アクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニー氏とその一族に対して行った非難がきっかけとなって、ハーシェミー一族は〔アフマディーネジャード支持者らによる〕激しい抗議に直面した。このため最近でも、原理派系のメディアは彼ら一族が最近の出来事を〔裏で〕組織していると言わんばかりに、彼らの些細な言動も逐一報じていた。

ファーエゼ・ハーシェミーとは?

 ファーエゼ・ハーシェミー=ラフサンジャーニーは、ハーシェミー=ラフサンジャーニーの次女で、ラーフーティー氏の妻にあたる。現在47歳の彼女は、ハーシェミー氏の子女のなかでは最も政治的活動の活発な人物だ。明確な意志をもって政治の世界に足を踏み入れた彼女は、74年〔1996年〕第5期国会選挙にテヘランから出馬し、2番目の得票率を得て当選を果たしている。当時、ファーエゼ氏はテヘランで最も高い得票を得たのではないかと疑問視する向きもあったが、しかし彼女はこの結果を受け容れている。

 彼女の政治活動は、国会議員に当選したことに始まる。彼女は女性の自転車運転について議論をしたり、アッザフラー女子大学では〔全身をすっぽりと覆う黒の〕チャードルを脱ぎ捨てて、女学生らとの集会で気軽な雰囲気で話しかけたり、さらには男性の国会議員なら口にできないような過激な政治的発言をしたりした。

 このように彼女は第5期国会では輝きを放ち、〔その後の〕改革派に活躍の道を切り開いたが、しかし第6期国会選挙では、その輝きは失われてしまう。改革派が占めた第6期国会に、議席を得ることができなかったのだ。自らの弁舌によって他者〔=改革派〕のために道を切り開いたにもかかわらず、その開いた道を辿って国会入りを果たした人々によって、逆に彼女とその家族(特にハーシェミー=ラフサンジャーニー氏)の道が閉ざされてしまう。歴史とは何とも皮肉なものだ。

 にもかかわらず、ファーエゼ氏は78年初め〔1999年4月頃〕、「ザン」(女性)という新聞とともにプレスの世界に足を踏み入れ、これまで以上に声高に自らの声を発するようになる。彼女はイランで初の女性向け新聞となったこの新聞の発行責任を担ったのである。

 「ザン」紙はしかし、期待されたほどファーエゼ・ハーシェミー氏の〔政界・言論界での〕役割を復活させることはできず、ほどなくして廃刊となってしまう。彼女の新聞は「発行停止」というトゲに絡み取られ、彼女自身も裁判所への出頭を余儀なくされたのである。

 さてその裁判所には、見慣れぬ、しかし大きな影響力を持った人物が現れた。エッファト・マルアシー。ファーエゼ氏の母親である彼女は、ファーエゼ氏の法廷に現れ、当時の裁判官に「誰の娘を裁こうとしているの」と言い放ったという。

 「ザン」紙の発行停止処分は、しかし解かれることはなかった。改革派の行動に不満を募らせたファーエゼ・ハーシェミー氏は、その後沈黙の道を選び、政治的集会にも姿を現さなくなった。政治について発言することもなくなり、噂ばかりが聞かれるようになった。

 しかし昨年のアーバーン月〔2008年10月下旬〜11月下旬〕、ファーエゼ・ハーシェミー氏は週刊誌「シャフルヴァンデ・エムルーズ」(今日の市民)とともに、10年間に及ぶ沈黙を破ることになる。「キーシュ島に投資をして、《ブーフ》(ふくろう)という名のレストランを所有している」などといった噂について、彼女は次のように述べている。「第9政権の成立とともに、ガラーアティー氏の親戚筋の人物がキーシュ自由特区の責任者になりました。その人物はキーシュ島にあるとされる私たちの資産を見つけ出そうと、調査のためにキーシュ島を訪れました。しかし何の成果も上がりませんでした。聞くところでは、ガラーアティー氏は様々な集会で、この噂は正しくなかったと語っているそうですよ」。

 こうして沈黙を破ったファーエゼ氏は数ヶ月前から、ミール・ホセイン・ムーサヴィー氏への支持を鮮明にするなど、大統領選で活発な活動を見せるようになっていた。

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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:16784 )