Hasan Cemal コラム:カンディル・PKKキャンプにて、その2
2011年06月28日付 Milliyet 紙
会見に参加したロナヒ・セルハトはウルダー大学の学生の時、PKKに加わった。
会見に参加したロナヒ・セルハトはウルダー大学の学生の時、PKKに加わった。

PKK(クルディスタン労働者党、非合法組織)リーダーのムラト・カラユランは、我々の質問に対し、「国はカンディルとの接触を求め、実際接触してきたが、我々は駄目だと言ったため、接触を取りやめた。我々の連絡先はイムラル島なのだから」、「最初のクルド問題の民主的解決は失敗だった。なぜなら、エルドアン首相は自分で笛を吹いて、自分で踊りたがったからだ。公正発展党(AKP)と平和民主党(BDP)がお互いに背中を向けるのであれば、和平の道は閉ざされる。」

カンディル山のある場所にて。2011年6月25日土曜日。胡桃の木の木陰でムラト・カラユランと、「和平」をもたらし、「戦争」を終わらせるロードマップ条件について話した。カラユランは次のように話した。
「トルコは既に和平を、解決を望んでいる。社会はクルド問題を手出しのできないどうしようもないものとは見ていない。社会は次第に数多くの解決法を模索し、解決することを望んでいる。トルコはこうした段階にいる。」

話の途中、ザグロス氏の和平に関する質問が頭から離れず、思わず笑ってしまった。
ザグロス氏とは、ナームクと私をトラックでアルビルからカンディルへ連れてきたPKKメンバーである。ドウベヤズト県ベショ村出身。33歳。13歳でアルビル近くのマフムール・キャンプへやって来た。父親は村で軍警察により殺害された。「兄弟二人は山で殉死した。もう一人は未だ山にいる」と話した。山々の間をうねるアリ・ベッグ渓谷の美しさに魅了されていると、私に質問してきた。
「ハサン、(ここに来たのは)解決のためかい、それとも新聞社のためかい?」
私が(答えるのに)躊躇しているのを見てとると、笑った。

私は答えた。「どっちもだよ、ザグロス!その両方!」
新聞記者としてなのか、国民としてなのか、時には難しい。一方で、新聞記者は歴史の証言者になりたがる。しかし、この間に線をきちんと引くこと、そして正しい場所に線を引くことが必要となる。この線は難しい。
もし間違うと、別の川に流れ着いてしまう可能性もある。ザグロス氏の鋭い質問は、カンディルに行く道中、私に、新聞記者が自身の分をわきまえるという問題を思い出させていた。

■国家は、反乱指導者と理解しなければならない

非常に沢山聞きたいことがあった。ムラト・カラユランが回答する度に、新しい質問が思い浮かび、答の合間に聞いてみた。
「一つはAKP、もう一つはBDP。この二つの政党は(総選挙のあった)6月12日にクルド人票を大体半分ずつ分け合ったと言える。この二政党が、今お互いに背中を向け合い、お互いに次第に敵対化し始めたとしたら、和平の道は開けるのだろうか?」

ムラト・カラユラン:
「それは正しい。AKPとBDPは、この二政党が、お互いに背中を向き合わせるのであれば、和平の道は閉ざされるだろう。この件では、最初に首相から動かないとだめである。」
国民の50%の票数を獲得した指導者であるタイイプ・エルドアン首相には、和平問題で大きな役割と責任があることを、カンディルの指導者はいつも繰り返している。

カラユラン:
「(トルコ)共和国では、過去のクルド人反乱の指導者は全て死刑に処された。しかし、最後の、そして元も偉大な、クルド反乱の指導者(オジャラン)は存命している。クルド人と、(トルコ)共和国が和解し、永続的で公正な和平のためには、国家は反乱指導者と理解し合わないとだめだ。このためにも反乱指導者が安心して活動できるようにしなければならない。」

カラユランは次のように言葉を続けた:
「今言われているのは、彼(オジャラン)が3万5,000人の死に責任があるということだ。これは正しくない。それなら、現在、1万7,000人分の未解決死亡事件の責任者は誰だろうか。チルレル元首相だろうか、それともデミレル元首相だろうか。トルコでは非武装の人々がこんなに殺害された。デルスィムで7万人、ズィランで、アール反乱では3万人近くの人々が(殺害された)。シェイフ・サイード反乱の際の虐殺。これら全ての責任者は誰だ、誰なのだろうか。」

■「我々はピクニックしに山に行ったわけではない」

(カラユランは)エルドアン首相について話し続ける:
「今、エルドアン首相はこう言っている。『我々は否定を乗り越えた!』しかし、これら全てを明るみにしていないので、どうして乗り越えたといえるのか?トルコは過去と向き合わないといけない。今、エルドアン首相は、こう言えるようでないといけない。

「ええ、トルコとクルドの兄弟関係は、1,000年前にまでさかのぼります。チャナッカレで、独立解放戦争で共に戦いました。しかし、1924年以降、クルド否定が始まり、当たり前となってしまった。こうして反乱を弾圧するプロセスが起きたのです。この否定の政策が悲劇を引き起こしたのであり、誤りでした。そして、PKK、オジャランは、この否定の政策の結果として出現したのです。今こそ、我々はこの歴史的な誤りを償うのです」と。

エルドアン首相が、このように言うならば、誰もオジャランだ、PKKだと言わないはずだ。PKKは理由もなく突然出現したわけではないのだから。2年前にあなた方にカンディルで話したように、我々はピクニックしに山に行ったわけではないのだ」

カラユランはエルドアン首相を批判する。
「今、エルドアン首相がこうしたことを言わなければならないのに、立ち上がって選挙時に「私だったらオジャランを死刑にしていた」と言うなら、社会的和平などありうるだろうか?またそこで裁判官が出てきて、ハティップ・ディジュレの国会議員資格をはく奪し、他の者たちをクルディスタン社会連合(KCK)に対する捜査、そして裁判のために攻撃している。このような社会的な和平はありえるだろうか?

■ハブル国境への「投降」の要求は、エルドアン首相からもたらされた!

2009年に行われた「第1回クルド問題の民主的解決策」が、なぜ行き詰まっているのかをカラユランに問うた。

彼の最初の反応は興味深かった。
「エルドアン首相は勝手に自分で笛を吹き、自分で踊りたがったため失敗に終わった」
その後、笑いながらこう続けた。
「AKPが言うには、『私がこの仕事をやる、他の対話相手は不要だ』と。しかし、タンゴを踊るためには二人が必要じゃないか?要するに、第1回目の民主的解決策は、片手落ちだったために失敗に終わった。エルドアン首相の手の中にロードマップはあるのか、ないのか、それも第1回の民主的解決策では明確ではなかった。」

カラユランは、2009年10月に第1回民主的解決を終わらせた「ハブル事件」(注)は、彼ら自身の過失ではないと考えている。
(カラユランが)話したことは、次のようにまとめられる。
「ハブルからの入国の求めは、エルドアン首相自身からもたらされた。和平の名の下に具体的なステップとして、1グループをよこしてほしい、ということだった。これを自身の政党(AKP)への政治的支援としても考えていたと思う。『ほら見てごらんなさい、もう皆、山から下りてきている』というような雰囲気をつくるために。我々も苦労してハブルに行く人々を選んだ。いかなる法的問題も生じないように努力した。指導者アポ(オジャラン)が、この件でもしかすると激しい反発が、と不安を抱いていたこともわかっている。その後、エルドアン首相は自身の決定を変更し、最初の民主的解決も(失敗に)終わった。」

【訳者注】2009年のクルド問題の民主的解決策が転換する最中、ハブル国境を越えてPKKの投降者らがトルコに入国した。当初、歓迎されたが、過剰に英雄的に扱われたため、トルコ国内の反発を呼び、結果的にクルド問題解決策の試みが挫折する原因となった。

■国とカンディルの諸会談

カンディルに来る際、私の頭にあった質問の一つは次のことであった。
「国は、カンディルと話し合っているのだろうか。話し合ったのだろうか。選挙キャンペーン中、BDP元党首であり、ハッキャーリ選出国会議員であるセラハッティン・デミルタシュは、ナームク・ドゥルカンに対し、5月19日にミリイェット紙に載った発言をした。「エルドアン首相、カンディル側と行った会談について説明してください」と述べたのだ。

ナームクがこの質問をすると、カラユランは一瞬止まった。視線を我々に向け、注意深く言葉を選びながら、要点として次のように話した。
「国は、カンディルとの接触を求めて、実際接触してきた。少ずつ接触を始めた。しかし、我々は『駄目だ、これは正しくない』と言った。それで、この方法を終わりになった、断ったのだ。我々にとって唯一の連絡先はイムラル島であり、指導者はアポ(オジャラン)だったからだ。」

以上のカラユランとの会話から私が得た印象は次の通り。
国が(オジャランを飛ばして)カンディルと接触を求めたこと、カンディルにチャンネルを開けることを望んだこと、これらは、明らかに、カンディルにおいては、国による分断主義的な行為としてみなされていた。

カラユランは次のように話した:
「2年前のカンディルでの会談で、対話のために4つの選択肢を掲げた。指導者オジャラン、カンディル、BDP、及びクルド知識人たち。国は既に指導者側、つまりイムラル島で(オジャランと)話し合った。対話相手に関する問題は、今はもうない。唯一の指導者アポ(オジャラン)は、我々の側にいる。」

カラユランがこう話すと、私はチェンギズ・ジャンダルの先週末に放送されたTESEVレポートの一部分をカラユランに示した。
「政府高官」がジェンギズに言った:
「問題はアポ(オジャラン)ではない。問題は我々側(政府)にある。我々は未だに一つの国になることが出来ていない。」

アンカラ側では、問題の核心は、依然としてここにある。
カラユランの回答は次の通りである。
「クルド人運動にとって、今、リーダーは一人。その指導者アポ(オジャラン)はイムラル島にいる。そしてもし国がこの問題を解決するつもりなら、全て、あらゆる条件は整うことになる。エルドアン首相も50%の票を獲得した状況にある。我々はさらに何を待つというのか。」

そう、これ以上、何を待つことがあるのだろうか?

**連載**
その1
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110628_060401.html

その3
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110704_030620.html

その4
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110704_163105.html

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:石川志穂 )
( 記事ID:23070 )