Hasan Cemal コラム:カンディル・PKKキャンプにて、その4
2011年06月29日付 Milliyet 紙
運転手のザガロス氏の息子マヴダルと。VサインはPKKのサインだ。
運転手のザガロス氏の息子マヴダルと。VサインはPKKのサインだ。

イラクのセラハッディンでネチルヴァン・バルザーニー氏に「和平の希望はあると思うか?」と聞いた。今こそ和平への機会だというバルザーニーは、エルドアンが50%の票をえていることを指摘し、和平プロセスに関する提案を列挙した。

イラクのクルド自治政府で、マスード・バルザーニーに続きナンバー2の位置のいて、「クルド・ファイル」の鍵を握るネチルヴァン・バルザーニー氏は、エルドアンがこれまでクルド問題解決のためにやってきたことは無視できないものだと語った。ただし、今後もなされるべきことはたくさんあり、「政府は、単独で行動すべきだ」「PKKは現実をみなくてはならない」と付け加える。


カンディル山の麓にある谷を流れる渓谷の岸にたつ一階建ての家。2011年6月25日(金曜日)。中に入ると、大きめの居間。絨毯がしかれ四方をミンデル(クッションでできた座面)が囲んでいる。中は涼しく、クーラーがきいている。天井に備え付けられたテレビからは、RojTVのキャンプ放送。壁には、アポのカラ―写真とPKKの旗・・。

部屋の隅には、絨毯の上に3、4才の男の子。毛布にくるまれてすやすやと眠っている。名前はマヴダル。我々の入ってきた音で目覚める。やってきて、私の膝にのる。頬にキスする。写真をとるときには、ザグロス氏にいわれて、勝利のVサインをする。
父親が尋ねる、
「敵はだれだ?」
「TC(トルコ共和国)の兵士!」
私はいう。
「この年で敵意を埋め込むなんて。平和を信じていないのか?」
ザグロス氏は語る。
「ハサンさん、まあききなさい。俺の父親を連中は1994年にディヤルバクルのベショ村で殺したんだ。2人の兄弟も戦死だ。一人は今もゲリラとして戦っている。クルド人であることを否定され、母語を学ぶことさえも禁止された。さあ、もう忘れて、この一大事業に参加せよって?10歳の息子は、いま、PKKのキャンプにいっている。サマースクールにいかせたんだ、政治教育のために。俺も、マフムールのキャンプに来た時には13歳だった。今は33になった。」

■問題のカギは、人々のドラマのなかにある。

クルド問題とは何か?「PKKはどうして生まれた?山からどうやっておりる?
こうした問いへの答えは、人々の物語のなかに隠れている。人々のドラマには、苦しみ、悲しみがある。そして、それを聞かずに、少しはそこから学ばずに、あるいは心に響かせようとすることなしに、問題を理解することはできない。

政府の間違いはここにある。政府を運営する人は問題の底にあるこの人間的な側面を、トルコ民族主義からの生まれた信条で拒否してきたために、今日、この小さなマヴダルが写真をとるときに、(クルド人のシンボルともなっている)Vサインをしているのだ。拒否してきたがために、マヴダルの10歳になる兄が、政治教育のためにPKKの山でのサマースクールに送り込まれているのだ。ゼキ・シェンガリの生涯もこれと似ていた。彼は59歳で、バトマンのベシルリ郡の出身。PKKの指揮官の一人、そしてKCKの評議会メンバー。

カンディルの麓の胡桃の木の下では、ずっとムラト・カラユランが話していた。彼は口を開かなかった。村の家の庭で、彼の話をきいた。
息子は山で死んだそうだ。娘はハノーヴァーにいて、政治学を学んでいるそうだ。小学校出。PKKでは司令官。
ゼキ・シェンガリは小学校しかでていない。17才で兄と一緒にドイツに働きにいき、ハノーヴァーの近くで鉄道現場で働いた。1979年に、PKKのシンパとなった。
「クルディスタンでの組織化の過程で、弱いものの味方だったためだ。族長の圧力や、軍警察と戦ったからだ。1987年にPKKのメンバーになった。7人子供がいたが、みんなハノーヴァーで育ち、教育を受けた。息子の一人は19歳で山に入り(ゲリラになり)、21歳のときにマルディンのあたりで戦死した。私も、99年来、ずっと山にいる。」

ゼキ・シェンガリの隣の椅子には、若くて美しい娘が座っている。「長女だ。会いにやってきた」という。話にしょっちゅう割って入ってくる。父も、態度や言葉で、娘をいかに誇りに思っているかを示している。
「ハノーヴァーで政治学を勉強している。いまは博士課程だ。」
「彼女も、父のように山に入るのか?」
「今のところ、その気はないらしい。」
「どこに泊まっているの、彼女は?君の家もここから近いの?」
ゼキ・シェンガリは笑って、「我々には家も故郷もない。山のどこかにいるんだ。」
娘とはドイツ語で話した。娘は、「平和の希望はあると思う?」と聞く。

■ネチルヴァン・バルザーニーによれば、またとない好機

平和への希望…。
カンディルにいるときも、アルビルに降りたあとも、いつも同じ質問を聞かれた。「平和の希望はあると思う?」

私は、同じ質問を、前日、セラハッディンで、ネチルヴァン・バルザーニーにきいた。
ネチルヴァン・バルザーニーは、イラクのクルド自治政府大統領のメスート・バルザーニーに続くNo.2で、その叔父にあたる。1987年に心臓発作で亡くなったイドリス・バルザーニーも、何年も山で過ごした、重要なペシュメルゲ(イラクのクルド人ゲリラ)の指揮官だった。

ネチルヴァン・バルザーニーは、同時にクルド自治政府でクルド問題を担当する政治家だ。

2011年6月28日(火曜)の朝、彼と対談しているなかで、まさに次のように語った。
「和平のために、またとない好機だ。」
「どうして?」
「なぜなら、エルドアンは選挙で50%の票をえた。BDPもいい結果だった。議会に36人も議員を送り込むことは並大抵のことではない。BDPは、この結果に満足しているに違いない。しかし、次のことも忘れてはいけない。政府はオジャランとも、十分な対話をしてきた。」

ネチルヴァン氏は、これら全てのことが、和平にとって下準備となっており、第一回対話(2009年の「クルド問題解決策」プロジェクト)からの教訓もあり、あたらしい和平への一歩が踏み出されると考えている。彼の話から次の印象をうけた。
(1) アンカラ政府が、PKKの現実を理解し、この現実を受け入れて計画をたてること。
(2) アンカラで、政府が分極化せず、強いリーダーシップで行動すること
(3) そして、PKKの本来のリーダーがイムラル島の監獄にいるという現実から、一瞬たりとも目をはなさないこと
(4) オジャランのイムラル島での待遇が、和平の門を開く上で大きな役割をもつことを考慮し、まずは短期的な改善策を講じ、中・長期的な計画をたてること
(5) もちろん有罪判決を受けたハティーブ・ディジュレや、KCK裁判で収監中の国会議員の状態、さらにKCKの収監者全般の状況に改善がみられること。

(6) 1万人が生活するマフムール・キャンプに関し、前向きのサインが送られること。

(7) アンカラ政府が、PKKとの間の不信感を払しょくするような一歩を考えること。

ネチルヴァン・バルザーニーに尋ねた。
「では、今度何かすべきはどちらだと?」
間髪をいれず、
「今度はアンカラの番だ。和平への好機を活用するための、最初に一手はアンカラから待たれている。」
ネチルヴァンは、エルドアンへ話をもっていく。
「このことは無視できない。エルドアン首相がクルド問題について、非常に大切なことを行った。大きな政治的なリスクを追って。このことは忘れてはならない。しかしこれで終わりではない。和平のために、なされるべき多くのことがある。」

その1
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110628_060401.html

その2
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110629_063810.html

その3
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110704_030620.html

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:23138 )